林隼平(はやし しゅんぺい、1990年<平成2年>7月13日 - )は日本の俳優。劇団おひさま冒険団所属。早稲田大学教育学部英語英文学科卒業。加圧インストラクター。兄が一人いる。

 

来歴

幼少期

東京都多摩市で生まれる。当時は兄の後ろをついてまわる子であったと母は言う。よく泣かされていたが、幼少期の兄弟仲は悪くなく、遊ぶときはいつも一緒であったらしい。父は臨床心理士。同地域に障碍児・者の個別支援活動の教室を開いており、指導員・相談員として働いていた。母は看護師の後、長男が生まれるタイミングで辞職。その後は時間に融通の効く看護学校の非常勤講師として勤める。

両親が共働きであったので、よく祖母に世話になっていた。

幼少期から犬が大好きであった。当時在住していた市営団地の住人が外飼している柴犬によく触れ合いに行き、その犬の子供が産まれた時は兄と二人で面倒を見てよく遊んでいた。やがてその犬がどこかの家に引き取られることが決まり、会いに行ったときに突然いなくなっていて大泣きしたらしい。

ヘリコプターの発音が出来ず、ヘリプコターと言っては両親から笑われていた。

 

小学校

多摩市立多摩第一小学校に入学。当時から人見知りのためなかなか友達が出来なかったが、たまたま自分と同じ生年月日の子とめぐりあい、一番最初に友達になった。なお、今もその友人との関係は続いているらしい、一人友人ができるようになると、安心したのかそこからはいわゆる普通の小学生の生活を過ごすことができるようになった。

小学校2年くらいから土曜日にあった学校が休みになった。当時は土曜日の午前中に学校にいってそのまま友達と遊ぶという生活が好きだったため、なんのことかわからず急に休みになってしまった土曜日に寂しさを感じていた。

小学校4年生から野球を始める。野球を選んだ理由は先に兄が始めていたこと、母が野球中継を毎晩見ていたからであった。母は学生時代、原辰徳の追っかけをするほどの巨人ファンであり、自身も巨人を応援していくようになる。野球を始めるようになると、自然と付き合いも増えていったので上の年代との交流も増えていった。入った当時はちょうど監督とコーチが辞めたり就任したり、出入りの激しい時期であった。聞くところによると、保護者間のクレームが原因らしく、それを見て大人の世界は大変だと言うことを幼心に感じたらしい。

小学校3、4年生はとても思い出深いらしい。担任の野呂瀬先生は、厳しくも優しい女性先生で、よく泣きながら廊下に立たされたりもしたが遊ぶ時間を積極的にとってくれる先生でよく懐いていた。「良いこと=花まる」ポイントが一定量溜まると、一日授業免除でレクリエーションに使えるという制度をとっている先生で、そのレクリエーションの内容も生徒たちが決めて自由に遊んで良いという形をとっていたため、のびのびと楽しむことが出来た。

小学校4年生頃、同地域の開発地帯に引っ越した。当時は山を切り崩して開発途中の場所であったため、周囲に何もなく、山の上から登下校することになり、友人との距離も遠くなったため両親を恨んだ。

小学校高学年に上がると、斜に構える言動が増えていく。周りに流されてちょっと悪ぶってみたり、生意気なグループに属したりもするが、あくまで流されているだけだった。依然として先生や年上の人との関係は好きだったが、照れくさくて以前のように振る舞うことができなくなっていったという。

 

中学校

多摩市立多摩中学校に進学。第一小学校から徒歩5分もしない距離にある中学校であったので、周りもほとんど同様に進学してきた生徒ばかりであった。ほぼ顔見知りであったため、変わったことは校舎と制服を着ることくらいだったので、さほど緊張感は芽生えなかった。

兄も同様の中学校に進学しており(入学のタイミングで入れ違いで卒業している)、兄の担任をしていた三浦先生が自分の担任となった。バレー部の顧問で、ハチャメチャ怖い人だと聞いていたので、どうかその先生だけは担任にならないでくれと思っていたが、見事的中してしまい、入学まもなく恐怖のどん底に落とされることとなる。しかし、バレー部を教えている時だけやたらと厳しい先生で、普段は温厚な人であったため、すぐに馴染んだ。

野球のクラブチームに入っていたため、当然野球部に入るかと先輩や周りからも思われていたが、そこまで野球漬けになるのを御免だと思ったのか、陸上部に入部した。当時野球部の同級生や先輩からは裏切り者扱いされて、ひどく悲しい気持ちを抱いていた。ただ、陸上部では中学校3年間ずっと仲良くなる同級生数人と時間を一緒に出来たため、それはそれで良い選択であったと、すぐ切り替えることが出来た。

中学校2年生になると、段々と周囲も反抗期に入っていく流れの中で、自身も反抗期を味わうこととなる。