たまゆり笑

たまゆり笑(たまゆりえ、1989 年〈平成元年〉2 14 日‐)は日本の女優。本名は大庭ゆりえ(おおば ゆりえ)。劇団おひさま冒険団代表。静岡県裾野市出身。東京農業大学国際食糧情報学部国際農業開発学専攻卒業。 プロダクションルートエフ所属。身長 154 cm、血液型 O

 

 

来歴

幼少期

静岡県裾野市出身の両親との間に、1989 年(平成元年)2月14日に同市にて出生。 「ゆりえ」という名前は、庭に咲いていた百合の花と、父親が好きだった二谷友里恵からとったもの。当初、漢 字の予定であったが字画の問題から平仮名で「ゆりえ」となった。 親の代から続く絨毯工場を経営する父親と、元銀行員の母親、9 歳離れた姉の4人で母親の実家である専業農家 の土地に建てた一軒家で暮らす。 姉は聴覚障害を持つが、母と姉本人の努力で、補聴器をつければ、人と変わりなく話すことが出来たので、小学校からは一般の学校に通っている。 母親曰く、生後まもない時から人見知りで、2 歳くらいまで母親以外の人には懐かなかった。父親や姉が抱っこ をしても大泣きするくらいだった。3 歳になって父親や姉にはなつき始めたが、親戚であろうと他の人には全く懐かなかった。 その頃、母親が地元の会社でパートタイマーとして働くようになり、地元の保育園に入園。そこでも、母から離れるのが嫌で大泣きしていた記憶がある。保育園生活にも慣れ、友達とも積極的に遊ぶようになった。スポーツ家族だった影響で、父親のスポーツサークルや、母親のママさんバレー、姉の部活のバスケットボール部によく遊びに行き、休憩中によく一緒に遊んだ。 保育園では、外で遊ぶのが好きで、特にブランコが好きだった。先生によく二人乗りをして、高く漕いでもらっていた。年長になると、セーラームーンごっこが流行り、友達と役を決めて遊んでいたが、決まり文句のセリフが覚えられず、外された記憶がある。 アトピー持ちで、特にお風呂に入った後は肌がかゆくなるのが常だった。大人になるにつれてアトピーは改善され、今では全く症状はない。

 

小学生時代

1995 年(平成 7 年)4 月地元の裾野市立西小学校に入学。 近所の習字教室で、習字を習い始める。その習字教室の帰り道に自転車に乗っていて飛び出しが原因で交通事故にあう。坂道を数メートル飛ばされるが、顔や手にかすり傷を負っただけで済んだ。母親に怒られることも多く、 家の外に出されたこともあった。ちょうど父親が帰宅し、父親に家の中に入れてもらい事なきをえた。 1年生の秋くらいから、父親が家に帰ってこなくなる日が続き、母親からは出張だといわれていた。 当時父親は、様々なネットワークビジネスに手を出しており、家に特殊な掃除機があった。のちに、この掃除機は娘のアトピーの為に購入したことを知る。それが原因で親戚への勧誘や、ヤクザのような風貌をした人たちが自宅に来るなどして、母を困らせていた。さらには、ギャンブルで、テレフォンカードのように穴をあけて料金を支払うカードの穴を塞ぐ詐欺まがいで、逮捕され、地元新聞にも報じられた。その事実を知らされたのは、向いに住むお姉ちゃんと慕う友達だった。 これらが原因となり、小学校1年生の冬に両親が離婚したことを知らせれ、号泣した記憶がある。当時は両親の離婚が珍しく、苗字を変えることに抵抗があったため、母親に苗字はそのままが良いとお願いした。その為、苗字は変えず、本名は父親の姓「大庭」のままである。 後に本人は「こんなことがあったのに、近所の人や、同級生も変わらず接してくれた事に感謝している」と話す、小学校3年生の時に、姉の影響で姉の指導者と同じコーチの元でミニバスケットボールを始める。学校のクラブ活動は、バトミントン部に所属、6年生の時には校内の鼓笛隊でバトンを担当した。理由は忘れたが、よく先生から呼び出された記憶があり、その度に「お母さんを支えないといけないんだから、しっかりしなさい」と言われるのが嫌でたまらなかった。母子家庭で裕福な生活ではなく、母親の帰りも遅くなることが増えていったため、 両親の揃っている友達がうらやましく感じるようになった。高学年になると、反抗期で、友達と自転車を乗り回しては帰りが遅くなったり、母親の500玉貯金のへそくりを盗んでは、友達と駄菓子屋にいってひたすら、好きなものが出るまでクジを引いていた。近所の年下のお友達に意地悪をしていたこともあり、本人はこの頃が人生で一番性格が悪かったと語っている。宿題もまともにやらず、深夜こっそり起きて母親の目を盗んではこっそり宿題をしていた。身体は丈夫で、熱で休んでも、午後にはケロっとしていた。また、インフルエンザでクラスメイトが早退するのをみて、仮病をつかって早退したことがある。 運動だけは好きで、親ゆずりもあり、運動神経は悪い方ではなかった。5年生の時に市内の駅伝大会に学校の選抜メンバーとして選ばれる。当初 A チーム(速いチーム)の補欠であったが、当日 B チームの同級生の子が風邪で出場できなくなり、急遽1区を走ることになった。コースや距離、時間配分もわからず、最下位にちかい順位となってしまった。リベンジで臨んだ6年生の駅伝では、当日の朝「おたふくかぜ」にかかり出場できなくなった。姉とはあまり一緒に暮らした記憶はない。姉はバスケットボールの強豪校の高校に進学しており、 早朝から夜まで家にいなかった。その後、東京の専門学校に進学したため、物心ついてからは一緒に住んでいる 感じはなかった。姉のバスケットボールの応援や、上京してからは、東京によく遊びに行っていた。

 

中学生時代
2001 年(平成 13 年)地元の裾野市立西中学校に入学。バスケットボール部に3年間所属していた。ジャンプ力 には自信があり、試合中のジャンプボールでは、自分より 10cm くらい身長の高い相手にも負けていなかった。 因みに、弱小チームであったため、地区大会では常に予選敗退だった。入部当初、上下関係が分からず、先輩に 対して「嫌です」といったことがあり、その時は連帯責任で1年生全員が放課後先輩に呼び出され、説教された 記憶がある。 学校生活では、同じ苗字で誕生日も同じ月の女の子と友達になり、3年間同じクラスでいつも一緒に学校生活を 送っていた。後に先生から「二人は離してはいけないと思った」と3年間同じクラスになったことを聞かされる。 学校には陸上部があったが、メンバーが少なく、団体駅伝では、校内選抜で他の部活から出場するのが通常とな っていた。小学校の時に、出場できなかった、成人祝賀駅伝に念願かなって選抜メンバーに選ばれ、出場するこ とができた。中学地区駅伝大会にも選抜され、バスケットボール部に加えて部活動をしていた。この時は、早朝 に陸上部の練習で過酷なメニューで10キロ近く走り、その後、バスケットボール部の通常の練習をしていた。 人生で一番走っていた記憶があり、もともと長距離走は得意ではなかったので陸上部の長距離の練習は二度とし たくないと思った。 2年生になるころ、携帯電話がはやり始めた。どうしても欲しくなった為、テストの結果で学年19番以内に入 れば、母親と共有で携帯電話を持てると約束。当時学年120名ほどでテスト順位は真ん中位だったが、見事テ ストで条件をクリアして、携帯電話を買ってもらえた。その頃から進学したい高校も決まり、地元の塾に通い始 めた。目標としていた高校が進学校で、男女共学になるにあたり倍率も高くなることが予想された為、さらなる 学力向上が必須であった。目標が明確となり、積極的に勉強にも取り組むようになったので、テストの順位も常 に20番代以内をキープできるようになった。特に数学が好きで学年で2番を取ったことがあった。その時の1 番は一緒の学校に通っていた従妹であった。その後、順調に成績を伸ばし、当時高校受験の倍率としては、県内 トップクラスの2倍超えを見事くぐりぬけ、志望校に合格した。この時の受験番号は縁起の良い数字として、今 でも大切にしている。

 

 

高校生時代
2004 年(平成 16 年)静岡県立三島北高等学校に入学。電車通学も可能であったが、満員電車も苦手で、自宅か ら駅までも少し距離が離れていたこともあって、片道30分かけて自転車通学をしていた。 ずっと続けてきたバスケットボール部に入るつもりだったが、仲良くなった友達の影響と、ドラマ「エースをね らえ!」が放送されていた事もあって、ソフトテニス部に入部した。経験者ばかりの部活で、一人だけ未経験者 での入部だった為、入部当初は大変苦労した。また、人見知りが発揮され、なかなか打ち解けることができなか った。1日は、朝練から始まり、学校の授業、放課後の部活そんな生活を送っていたため、勉強はあまりした記憶はないが、文武両道の部活であったので、テスト期間になると、部員全員で部活時間に勉強をしていた。思春 期になり人前でご飯を食べることが苦手となり、(気を使わない相手の前では、食べることができた)学校ではお 腹いっぱいご飯を食べることができなかった。その反動で、帰宅後は過食に近い量を食べていた為、もともとぽ っちゃり体系であったが、さらに体重が増加してしまった。その時に同級生の男の子にから、からかわれた事も あり、その時の記憶は鮮明にのこっている。それでも、仲良くしくれる友達や部活の仲間もいたので、前向きに 生活を送ることができた。 2年生になると、進学の事を考え始めるようになった。というのも、大学進学を視野に入れた科目選択を行う時 期でもあったからだ。高校入学の頃の夢は、警察官になることだったが、2年次の後半になるころには、青年海 外協力隊など、海外ボランティアに興味を持つようになっていた。もともと、小学生の頃から海外の厳しい環境 で育つ子供達の事を思い、学校で案内の来る「文房具を買うと、ワクチン何本分になる」といものに興味を持ち、 母親に頼んで、よく文房具を買ってもらっていたのだ。ボランティアに行くのも、様々な選考分野があることを 知り、幼いころから身近にあった”農業”の分野を選択することにした。様々な大学を調べる中、なかなか見つか らないでいたとき、同じクラスの友達が、東京農業大学の国際農業開発学科をみつけ、調べてみたら、まさに本 人の行きたい学校であった。3年になり、部活を引退してから積極的に受験勉強をスタートさせた。放課後は、 友達と図書室に行って下校時刻まで勉強をし、帰宅後も勉強に励んだ。進路指導担当で、担任でもあった先生か らは、農大に行きたいなら、過去問題10年分をくりかえし何度でもやりなさいと言われた。器用に物事をこな せる性格ではなかったので、滑り止めで他の大学を受験することを辞めた。なので、センター試験と過去問題対 策の勉強をひたすらやっていた。受験は、当時名古屋近くに住んでいた姉の自宅から、名古屋の会場まで通い受 験をした。これは、ホテル代や食事代などの受験経費削減の為であった。そのかいあって、志望校に合格。希望 の大学に進学することになった。通っていた高校は髪染め、化粧など禁止の真面目な校風であったので卒業式が 終わってすぐ、念願だった髪の毛を姉に染めてもらった。

 

 

大学生時代
2007 年(平成 19 年)東京農業大学国際食糧開発学科国際農業開発学科に入学。初めての東京暮らしをスタートさせる。経済上の理由で最初の2年間は学校の隣にある、学生寮に暮らしていた。学生寮はとても安かった。二 人一部屋で、はじめは同じ学科の子と同じ部屋だった。最初は仲が良く、一緒に買い物に行ったり、生活を送っ たりしていたが、徐々にストレスもたまり、わだかまりが生まれるようになった。また、ホームシックもひどく、 毎週末になると実家に帰省していた。さすがに、このままでは駄目だと思い、サークル探しやバイト探しを始め た。サークルは、幾つか体験や見学に行ったが、人見知りで打ち解けることもできず、大学特有の飲み会も楽し いと思えず、サークルには入らなかった。アルバイトは、寮の近くのドラックストアに決まった。人生はじめて のアルバイトであり、4年次にその店舗が閉店するまで働いていた。 学校の授業も始まり、いつも4人でお昼を食べたり、授業を受けたりしていた。他の3人は実家暮らしで、1時 間以上かけて通学をしていた為、学校終わりに出かけることも少なかった。その分、アルバイトをしたり、図書 館に行ったりしていた。休日も友達と過ごすことはあまりなく、アルバイトや、当時、はまっていた献血をしに 渋谷に出かけて行った。そしてダイエットも開始し、もともと、体を動かすのも好きだったので、近くの公園に ランニングに行ったりするなど、2年間で10キロ近くの減量に成功した。おなじみのコースは大学の目の前に あった馬事公苑であった。学校にも慣れた頃、寮の部屋の子がペルー人になった。私も幼かったこともあり、理 解できない生活習慣もあり、仲良くは慣れなかった。今思うと悪いことをしてしまったし、せっかくの交流の機 会でもあったので、もったいないことをしたなと思っている。2年次の夏には、PKO の植林ボランティアで1 週間ほど、内モンゴルに行った。この時の中国や内モンゴルの生活環境を目の当たりにし、自分は海外ボランテ ィアで僻地に行き生活することは出来ないと実感した。事実、帰国後、カンピロバクターに感染し1週間ほど寝 込んでしまった。また農業に携わるならマニュアルでの運転免許が必要だと考え、教習所に通い始めた。仮免の 時、大学前の環八から右折するときに、教官に急ブレーキを踏まれ、交差点の真ん中でエンストした記憶がる。 3年次になり、寮を出なくてはいけなかったので、大学から少し離れた祖師ヶ谷大蔵に1Rの部屋を借り、一人 暮らしを始めた。一人暮らしは快適でとても健康的な生活を送っていた。朝6時に起き、朝ご飯を食べ、お弁当 を作り、学校に行く。帰ってきたら夕飯を食べ、12時までに就寝。この時が人生の中で一番健康的だったと思 う。また、卒論の事も考え始め、アルバイトと学校生活だけでは駄目だと思い始め、熱帯園芸学研修室に入った。 先輩の研究のお手伝いをいながら、研究のやり方や、機材の使い方等を学び、また自分での調べ学習等とても楽 しかった。研究室での飲み会は、先生が好きだったキリンビールが乾杯の通例であったこともあり、苦手だった ビールが飲めるようになった。また、研究室員の実家から贈られてくる、越乃寒梅の美味しさも知り、日本酒が 好きになった。そして 3 年の夏、就活を始める時期になった。当時、リーマンショックの影響もまだ残る時代で、 就職活動は厳しく就職浪人をする先輩も多く、就職してもその後の保証はない、そんな社会情勢だった。リクル ートで様々な企業を調べたり、地元の公務員採用について調べたりしたが、やりたいことも分からず、自分が何 に向いているのかも分からず、悩んでいた。そんなある日、自宅のパソコンでいつものように企業を調べていた 時に、幼いころ夢見ていたテレビの世界にチャレンジしたいと思い、気が付いたら A-TEAM グループのオーデ ィションに応募していた。その後A-TEAMグループのA-Lightに所属し、養成所に通い始めた。所属するときに体調管理を指導された。その時指導されたことは、1日1時間以上の有酸素運動、寝る4時間前には何も食べない、水は寝る1時間前までに飲む。この3つであった。そこで学校に片道40分かけて歩いていく事にした。それと同時に卒業論文向けた準備も始まった。作物の栽培方法による、生育や含有量の違いの研究なのだが、当初、“かぼちゃ”をテーマにしたいと教授に相談したところ、かぼちゃの着果数や収穫時期と論文提出の時期が短く研究期間が短いとの指摘があり、かぼちゃを断念し、「とまと」を題材に「トマトにおける生ごみ肥料と有機肥料の生育と成分含有量の違い」をテーマとした。卒業論文の傍ら、養成所に通い4年次の9月には初舞台に立った。アルバイトに、卒業論文に、舞台稽古と多忙を極めた。特に舞台は初めてで声の出し方も分からず、演出家にスパルタ指導され、泣きながら家に帰り、夜な夜な家で練習していた記憶がある。その後、卒業論文に集中し、徹夜で実験を、論文を書いた。当時アルバイトをしていたドラックストアが建物の解体で閉店となり、知人の紹介で、クリスマスの時期にコージーコーナーで働いたり、不動産屋さんで受付と内見業務のアルバイトをしたりした。そして年が明けて無事に期限内に卒業論文を書き終えることができた。それと同時に所属事務所の舞台オーディションに受かり、2度目の舞台が決まった。この稽古もスパルタで、カラオケでの深夜稽古等毎日朝から深夜まで稽古をしていた。稽古中には、演出家の隣から、カセットデッキが飛んで行った記憶もある。卒業論文では、研究室の代表として、優秀賞を決める学科発表会に選ばれたが、この発表会の日が大切な稽古日と重なっていた為、自ら辞退した。因みに選ばれたのは、他の研究室員の論文提出が、規定の期間に提出されておらず、対象となるのが本人だけであったからだ。そして2011年3月に池袋のBOX in BOX THEATERにて2度目の舞台に立った。その舞台の2日目の本番中に、東日本大震災が発生した。二階建てのセ舞台セットで、次のシーンに出るためにその二階にいた為、はじめは地震だと気が付かずに、今日はやけにセットが揺れているなと思っていた。舞台は急遽中止された。電車も止まり何が起きているのかも分からない状況だった。その日は劇場の隣にあったお寺に泊り、そこで何が起きたのかを知った。この時共演者のパソコンで観た津波の映像は同じ日本で起きているのだと信じがたいものであった。翌日、交通機関が少しずつ動くようになり、夜の部から公演を再開した。震災にあった公演に、静岡から母親が友達と来ており、静岡に帰るのに大変だったと話していた。なんとか舞台も終わり、家に帰るといろいろな状況が見えてきた。大学でも、卒業式の自粛が決まり、ホールでの盛大な開催ができず、学科の教室で縮小での開催となった。袴を着る予定であったが、盛大な会ではなくなり、キャンセル料金も全額返金できるという事で、袴をキャンセルしスーツで参加した。いくつか予定をしていた卒業旅行も中止となった。20113月に大学を卒業した。

 

香取大介との出会い

大学卒業後は、新宿のラーメン屋さんでアルバイトをしながら、オーディションやエキストラの仕事をこなしていた。舞台にも積極的に興味を持ち始め、舞台のオーディションも受けていたが、なかなか出演が決まらないでいた。当時主流だったSNSサイトmixiでの舞台出演者募集をみかけ、応募した。それが現在の劇団おひさま冒険団の作・演出・GMの「香取大介」との出会いであった。その募集要項に書かれていた「ゼロをイチに変える可能性」という言葉に惹かれ、中野区上高田にある事務所に会いに行った。今でも覚えているのが、初めて行った事務所で当時所属していたタレントの誕生日会が行われており、初対面でケーキをご馳走になるという不思議な出会いであった。後日、舞台稽古の体験に行き、出演するかどうか迷っていたところに香取からの押しのメールがあり、2011年(平成13年)10月 新宿シアターブラッツにてEmpathyexperience主催「彼の丘に眠る」に出演することを決めた。その後、A-Lightを退所し香取が社長を務めるプロダクションルートエフに所属することになった。香取から「お前は普通になっても売れない!」と本人も分かっていたが、受け入れたくない事実を正面切って言われた事が、事務所を移籍するきっかけになった。Empathyexperience(通称e2)とは、ルートエフ直轄の演劇ユニットである。公演等やイベント活動をやるときはこの名前で活動していた。ちょうどこの頃から中野区での地域活動をスタートさせた。

 

中野区地域密着

はじまり

2012年1月に開催予定の、健康・食育に関するイベントにe2で参加することが決まる。ミニ劇「きずなちゃん」に加え、運営側の手伝いとして、イベント参加者への景品の提供を中野区の商店街をお願いして回った。門前払いは当たり前、話を聞いてくれるだけでも有難かった。「行きたくない」「やりたくない」と思う事ばかりで、泣きたくなることも多々あったが、振り返るとこの時のお陰で精神的にも鍛えられ、少しのことでもへこたれなくなった。この時出逢ったのが、新井薬師駅前に店を構える「薬師の大番」と沼袋商店街にあった「青汁と健康食品の店」である。薬師の大番とは今でも交流があり、劇団を応援してくれている。青汁と健康食品のお店とも交流を持ち、舞台のスポンサー等、協力を得たが、現在は閉店してしまった。このイベントは無事に成功した。因みに今でも交流のある「ひなさく堂」ともここで初めて出会った。後にこのイベントで活躍していた方々と「いのちと健康なかのJAPAN」というチームを作り、今でも中野区を中心に、食育・防災の関する活動を行っている。この年の2月から2018年頃まで、みそのサイエンス紙芝居「みそちゃん」として活動をスタートさせた。主な活動として、神奈川テレビ立春大吉大豆収穫祭、上鷺宮味噌仕込みイベント、神奈川県立相原高校出張授業、二子玉川の東急スクエアにて上演東京都食育フェアの特設ステージなどがある。2012年4月より、ルートエフ主催で中野区地域密着のエンターテイメントとして「なかのエンジョイ♪えんた~て~メイト」企画がスタートする。そのスタートVOL.0として「竜宮城と鬼が島と舞踏会」が上演された。その後、この企画が終了するまで、メインキャストとして活躍した。5月に拠点を中野に移す為に、世田谷から中野に引っ越す。当時、本名の「大庭」で活動していたところ、事務所の入り口に貼ってあった、公演のチラシを観て1本の電話がかかってきた。同じ柳通にあった、折原コーヒーの会長であり、中野区商店街連合会名誉会長の折原さんご本人からであった。折原さんは「大庭」という苗字ご縁があり、興味を持ち、連絡をしてきたのだ。香取と共に会いに行き、現在でも深く関わりのある方と縁を繋ぐきっかけにもなった。その後も一人で遊びに行っては、いろいろなお話をし、おいしい炒りたてのコーヒーをご馳走になっていた。ゆりえ本人は気軽に遊びに行っていたが、普通はアポをとらないと会えない人だと後々知ることになる。

「なかのエンジョイ♪えんた~て~めんと」と「梅娘」

作・演出家の武田直樹氏と香取による共同企画のプロデュース公演。VOL.0として「竜宮城と鬼が島と舞踏会」では、出演者全員がルートエフ所属というこれから、ともに中野区での活動を共にするメンバーであると思っていた。しかし香取のあらぬ噂を流され、多くのメンバーが去っていた。本人を含む4人の女優陣で再スタートし、VOL.1「天使のシケン」では主演を務めた。このVOL.1からルートエフ所属者と武田氏がキャスティングした俳優陣で構成された。その後、2012年(平成27年)にVOL.2「アラジンと魔術師たち」2013年(平成28年)3月VOL.3「かぐやのふるさと」を上演した。この「かぐやのふるさと」公演中に、祖父が亡くなり、本番の為に葬儀や告別式に行くことができなかった。俳優は「親の死に目に会えない」とよく言うが、まさにそれを実感した出来事であった。祖父は私が農業大学に進学するきっかけとなった「農業」を身近に教えてくれた人だった。2013年三が日の六本木ヒルズでのイベントから和歌山県の梅干しの会社「岡畑農園」がゆり笑の事を気に入り応援するようになった。「かぐやのふるさと」では協賛会社として大々的に協力をえられた。同じくルートエフメンバーであった早瀬友美と共に「梅娘」として岡畑農園のPR活動を開始。和歌山県の本社での研修やウルトラマンフェスティバル2013や茅ヶ崎サザンビーチフェスタ2013等。同年8月に開催のVOL.4「なかのサイド物語」に出演予定だったが、岡畑農園のウルトラマンフェスティバルのイベントと稽古スケジュールが重なっていた為、出演を辞退した。しかしその後、岡畑農園との間に亀裂が生じた。原因は様々だが、岡畑農園とルートエフとの間に広告代理店が何社か関わり、複雑に入り組んでいた。ついには、代理店の担当者から、SNSでの誹謗中傷を書かれたり、何度にもわたる着信、「なかのサイド物語」で受付をしていたところに、直接来るなど、精神的に追い込まれていった。その後、岡畑農園との関わりは一切なくなった。そして、「なかのエンジョイ♪えんた~て~めんと」は武田氏の無謀な演出と企画スケジュールによって大幅な赤字となり、VOL.4「なかのサイド物語」の作品をもって、ピリオドをうった。この期間に、中野フリーペーパー「おこのみっくす」と交流を持つようになり、公演の宣伝掲載また、取材記事への出演(こしだ歯科)等がある。

 

おひさま冒険団立ち上げから、旗揚げ公演まで

2013年9月ルートエフ主催で「梅干し部」企画がスタートする。第一話「十六のココロ」をレストラン&ライブハウス ミノトールにて上演、主役を務める。その後、高円寺のDiningBar「HiLz」にて2014年5月まで月に1度朗読劇を開催し、出演していた。その間の2013年11月に香取大介と当時ルートエフメンバーであった、伊藤紗代団長となり、「劇団おひさま冒険団」が立ち上がる。構成メンバーは、ルートエフからの選抜であり、当初たまはメンバーの候補に入っていなかった。しかし、選抜オーディションでの姿が香取の目に留まり、メンバー入りとなった。こうして、「劇団おひさま冒険団」での活動がスタートした。※立ち上げの詳細は、おひさまページを参照2014年7月に、香取の後輩である、冨澤十万喜氏主催のBIG MOUTH CHICKENにてダンサー&アクションとして「NEVER SAY NEVER and...〜月が綺麗だから〜」(築地ブティストホール)に出演する。この作品では、伊藤も演出助手、キャストとして参加していた。この舞台の本番に代表である香取を招待するのが当たり前だと思っていたたまは、主催の冨澤氏に確認をし、香取をこの舞台に招待した。これに対し、伊藤は「香取さんが来ることを知らなかった」「何も連絡がないのはどういうことだ!」と話していた。それがきっかけとなったかは分からないが、暫くして伊藤はルートエフ及び、劇団おひさま冒険団を退団した。その後、吉良達矢が団長に就任した。それから、中野での地盤を少しづず積み重ね、2015年2月に中野スタジオあくとれにて、旗揚げ公演「西誘記」を上演した。その後新メンバーを加え2016年2月に第2回本公演「真田十勇志」、2017年2月「夜霧のベルゲン・ベルゼン~2人のアンネ~」